同窓会70年の歩み 

 

 同窓会70年の歩みを記述するにあたり、10年ごとに活動の実態を総会・会報・母校への後援などを中心にまとめてみた。

   
|■創立~40周年代|■50~70周年代■70周年以降||■平成16年以降■歴代会長
      
創立~40周年代   
 
●創立時代(大正14年~昭和9年)

○同窓会の創立
 大正14年2月、卒業を前に1期生が設立運動を始め会則を制定し、14年10月29日発会式兼第1回総会が開催され、初代会長には学校長の鈴木煙州先生、副会長は主事の山本政人先生、幹事長には大須賀与喜三氏(化1期)が選ばれて会の運営にあたった。会長の鈴木煙州先生は同窓会の発足にあたって「同窓会は会員相互の親睦と母校の発展後援をなす目的を有するものであるが、同窓会は母校を背景として成り立つもので密接な関係があり、従って母校を後援はするにしても、それは学校の行政に干渉するようなことがあってはならない。世間には往々にして独立した教育機関である事を忘れ、後援の範囲を逸脱して内政干渉の言動に走り、そのため紛擾を醸した例は少なくない。この点を十分に弁え、同窓会と学校の立場、区別を明瞭にして、本会の発展を図られたい。」と述べられた。これは同窓会と学校の関係とその将来について、すこぶる重要な意義を含蓄する言葉として受け止め、70年間同窓会運営の基本理念として継承されている。

 
○総会
 総会は会則により毎年1回開催され、会員が一堂に会して旧交を暖めると同時に、会務に関する重要な議事を議決するもので、第1回(大正14年〕創立総会より第6回(昭和5年)まで毎年開催され、第3回総会で安部翁銅像の建立が発表され、余興として外部より筑前琵琶、バイオリン、ピアノの演奏家を招いたり、また有志による合唱などがあり明るい会の雰囲気が醸しだされて、この趣向は4、5、6回にも継承された。第7回以降も毎年開催されたと伝えられているが、その記録は残されていない。


○会報
 会報発行にあたっては、横浜を離れて音信も頻繁でない会員の許に懐かしい同窓の便りを送ることは最も望ましいことであり、会報は大事な役目を持っているとの発想で発行された。第1号(大正14年)は会報・名簿を合併した「同窓会雑誌」という形式で謄写版半紙半折71頁建、内容は名簿の他は詩や回顧的文章が大部分であった。2号も1号と同形式で発行され、3号は木版刷りの優雅な芸術的な表紙にし、内容も豊富で文芸雑誌的な趣をもっていた。4号は新聞形式、5号から10号までは小型新聞形式(タプロイド判〕で、内容は報道価値の高いもの、時事経済、感想、研究、会員の消息、母校の便り、総会の記事などが中心に編集されている。


○母校への後援
 野球部が昭和3年、5年の夏、7年春の選抜大会に甲子園出場を果したので資金援助を行った。昭和5年母校創立10周年記念事業とし安部翁の銅像を建てることが企画され、その資金として安部記念事業募金が行われたので募金に協力した。銅像建立残金は安部奨学金の資金に当てられた。

 
●10周年代(昭和10年~昭和19年)
この10年間は満州事変を契機として中国大陸での戦争拡大と太平洋戦争への泥沼の道を歩む時代であり、このような情勢下では同窓会のような組織はその機能をひっ塞されていたので、活動にもいろいろな制約を受けていたため特筆する活動実績が残っていない。

 

○総会
 毎年開催されたと伝えられているがその記録はない。

 
○会報
 定期的に年1回発行されたようであるが、年々会員数の増加に加えて、戦時色が深まり用紙難の影響を受け、会報即名簿の形式となった。昭和13年12月発行の9号は用紙節約のため名簿の訂正、以降は出征者が記載されているのみである。現在同窓会事務局で保存している戦前の会報は第9号のみである。

 

○母校への後援
 野球部が昭和3年、5年の夏、7年春の選抜大会に甲子園出場を果したので資金援助を行った。昭和5年母校創立10周年記念事業とし安部翁の銅像を建てることが企画され、その資金として安部記念事業募金が行われたので募金に協力した。銅像建立残金は安部奨学金の資金に当てられた。

 
●20周年代(昭和20年~昭和29年)
 敗戦の混乱に引き続く世相の不安、食料難などいろいろな障害があったが、昭和22年戦後の虚脱状態からようやく脱け出す気運が起り始めた。その頃同窓会再建の話しが持ち上り、再建世話人会が結成され再建に向けて力強く歩み出した。母校は昭和23年学制改革により商工実習学校から商工高等学校に改名された。

 

○総会
 昭和22年まで開催されなかったが、23年11月待望の再建同窓会総会が大岡で開催された。この総会で「会長、副会長は母校卒業生から選出する」と規約が改正されたことは特筆すべきことである。

 

○会報
 24年に復刊第1号が発行され、大須賀与喜三会長就任挨拶、椙山校長挨拶、「自由人の特徴」と題して鈴木煙州先生の特別寄稿、同窓会再建までの経過報告、同窓会資金募集などが記載されている。

 

○母校への後援
 昭和25年母校創立30周年の記念事業として、第2次大戦末期建物疎開のため解体処分された講堂兼体育館を再建することになり、県当局にPTAと連名で陳情書を提出した。当時は建設費の半額を学校側で負担することになっていたので、建設募金が行われたので協力し、講堂兼体育館は昭和28年3月落成を見た。
母校創立以来、体操、柔道、書道を担当され厳格にして慈愛深いご指導いただいた花島辰五郎先生が、昭和24年5月退職されたのを機に、花島先生謝恩募金を行った。
学制改革により男女共学が実施され、30期(昭和28年)より初めて女子同窓生が誕生し新しい時代の幕開けとなった。
 
○その他
 *母校創立以来、体操、柔道、書道を担当され厳格にして慈愛深いご指導いただいた花島辰五郎先生が、昭和24年5月退職されたのを機に、花島先生謝恩募金を行った。

*学制改革により男女共学が実施され、30期〔昭和28年〕より初めて女子同窓生が誕生し新しい時代の幕開けとなった。
 
●30周年代(昭和30年~昭和39年)
 昭和30年代は高度成長経済を迎え、所得倍増計画にのって生産力も飛躍的に増大、昭和39年には東京オリンピックが開催された。同窓会の活動も地味ではあるが順調に推移した。

 

○総会
 毎年定期的に開催され、昭和34年までは母校で行われていたが、母校創立40周年にあたる昭和35年度は会場をシルクホテルに移して盛大に実施された。以後会場は氷川丸、野沢屋(現横浜松阪屋)で開催され平穏裡に運営されていた。

 

○会報
 6号から16号までは毎年1回発行され、特に6号には鈴木煙州先生が「創立35周年に際して」と先生の学校に対する郷愁を寄稿されている。13号では創立40周年記念事業の1つとして校旗を新調したことが紹介された。(旧校旗は古資料室に保存してある。)

 
○その他
 母校の創始者で、本会初代会長並びに顧問として本会を36年間もの歳月育くんでくださった鈴木煙州先生が、昭和36年8月29日、91歳で大往生された。

 
●40周年代(昭和40年~昭和49年)
 40年前半は日本経済にとって燗熟期ともいわれ、商品の多様化、高度化が進み国民は燗熟を享受するようになり「昭和元禄」という流行語も生み出された。後半はニクソン・ショックや第1次オイル・ショックに見舞われ、高度成長の歪みが表面化し、社会的にも多くの問題を抱えた時代であった。母校は弘明寺校舎の老朽が進んだことと校地狭隙のため、予てより移転を要望していたが念願が適い、49年3月保土ケ谷区今井町に移転した。

 
○総会
 昭和45年度は母校創立50周年を記念して、会場を東急ホテルにて開催。昭和48年度は母校が移転することもあって、想い出の校舎を訪れる最後の機会にしようということで弘明寺の校舎にて、昭和49年度は移転した新校舎にてそれぞれ開催された。

 

○会報
 毎年1回発行され、21号までは2頁建てであったが、22号からは4頁建てとなり内容も充実、この時代の特徴は会員の経営する企業の紹介、多数会員の所属する職場だより、母校50年の歩み、新校舎移転に関する記事などが多い。

 
○母校への後援
 昭和45年母校創立50周年記念行事に協賛参加。学校、PTA、同窓会で創立50周年記念事業会を構成。学校移転にあたり県費支出対象とならない「安部幸兵衛翁の胸像移転」「名教自然碑の建立」「校舎周辺の植樹」などの費用を記念事業会で負担した。

 
○その他
*同窓会創立当初から幹事長、第2代会長として永年に亘り同窓会発展の基盤を築き上げられた大須賀与喜三氏が昭和48年10月11日急逝された。
*昭和49年校舎移転に伴い情報処理科が新設された。

 

 

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